広報くき 2023年4月号に掲載された、久喜市栗橋地区の宿場町「栗橋宿」の歴史をご紹介します。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した”静御前”にゆかりのある地も登場します。街あるきには最適なシーズンも到来。史跡をなぞりながら、歴史に思いをはせて市内を歩くのも素敵ですね。
利根川のほとりで育まれた歴史 栗橋宿
宿場町「栗橋宿」の風景
今から約400年前、江戸から日光へ至る主要道路として日光街道が整備され、その宿場町の一つとして栗橋宿が設置されました。
栗橋宿の最大の特徴は、日光街道で唯一の関所が置かれていたこと。他の宿場町には見られないこの交通史的特徴を中心に、栗橋宿の歴史を紐解いていきます。
時はさかのぼること江戸時代、幕府は重要な交通政策の一つとして、現代にもその名を色濃く残す五街道を整備しました。当時は馬を使った通信輸送手段が最速だった時代。馬を迅速に走らせるために、馬と貸客を継走する伝馬制度(てんませいど)が作られ、江戸と各地を結ぶ街道には、馬の継走と旅人たちの休息の場として、宿場町が設置されました。
そして、現在の久喜市内にも存在した宿場町。それが、日光街道の起点・日本橋から数えて7番目の宿場町として整備された「栗橋宿」です。
利根川を挟んだ対岸の中田宿(なかだじゅく)とともに、宿場の機能を分担していた当宿。
当時の様子を伝える書物には、「農業の間に旅籠屋(はたごや:食事つきの宿屋)を営んで旅人の休泊を受け、食物を商う茶店があり、その他に諸商人が多い」とあります。
また、粟餅(あわもち)を商う店が2軒あり、この地の名物とされていたとか。
発掘調査と宿場風景
平成24年から令和4年まで発掘調査が行われ、陶磁器や漆塗りのお椀といった生活用品から、建築に用いられた廃材など、当時の様子をうかがわせる遺物が多数出土しています。
天保14年(1843)の調べでは、栗橋宿の人口は1,741人、家の数は404軒、旅籠屋は25軒で、現在の埼玉県域の日光街道の宿場としては、杉戸宿に次いで規模が小さかったとされます。しかし、栗橋宿には、他の宿場とは明らかにその様相を異にする特徴がありました。日光街道で唯一、関所が設置されていたことです。
日光街道(日光道中)
江戸時代に整備された五街道の一つで、日本橋から現在の栃木県日光市までの21宿からなる全長約140Kmの街道。江戸幕府の開祖である徳川家康を祀る東照宮のある日光へ、歴代将軍が参拝する際に通行した街道として特に重要視された。
日光街道唯一の関所と房川(ぼうせん)流し
栗橋関所(正式名称:房川渡中田関所 ぼうせんわたしなかだせきしょ)の成立は、寛永元年(1624)、4人の番士が幕府から任命され、同年に関所の建物が新築されたことによるとされています。
関所番士は2人1組で午前6時ごろから午後4時ごろまで旅人の通行の取締りを行い、緊急時には例外的に夜間通行を認めていました。庶民の男性は、不審な点がなければ通行は容易であったことが知られていますが、武器類や女性の通行については、関所通行のための許可書である手形が厳重に調べられました。
また、当時、河川は軍事的にも通行上大きな障壁であったことから、江戸幕府は橋を架けさせなかったとされ、利根川においてもそれは同様でした。そのため、利根川を挟んで対岸の中田宿までは渡し舟が往来し、これを「房川渡し」と呼びました。江戸周囲の五街道に置かれた関所は特に厳重に取り締まられましたが、その中でも栗橋宿は、関所と渡船場の二重の関門であった点に特徴があります。
慶応4年(1868)、新政府は全国の街道に関所などの設置を禁止する法令を出し、明治2年(1869)、関所は廃止となりました。栗橋関所のあった位置は、現在は利根川河川敷となっており、その痕跡を見ることはできませんが、利根川橋のやや上流部付近と考えられています。大正13年(1924)に地元の人たちによって「栗橋関所址(あと)」碑が建てられました。この碑が目標物となって、現在、「栗橋関跡」として県の旧跡に指定されています。
関所・こぼれ話
大名の妻女は人質? 関所設置
3代将軍徳川家光は政治的統制のため、諸大名に対し一定期間江戸に住まわせる参勤交代を義務付け、江戸屋敷に妻女を置くことを課した。
「入り鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんな)」という言葉があるように、関所は江戸防衛上、武器類の流入と妻女が江戸から逃げるのを防ぐための危機管理だったといえる。
不正通行は重罪! 関所破り
享和元年(1801)9月、奉公先から大金を盗んで女と逃亡した男が、栗橋関所を避けて内国府間(うちごうま)村(幸手市)から船で川を渡り、関所抜けをした。
今市宿(日光市)で捕まった男は栗橋関所に送られて磔になり、この時大勢の群衆が見物に押し寄せたという。
一時的に橋がかかることも 船橋架橋
将軍が家康を祀る日光東照宮へ参拝する際、通行で最大の障壁となる利根川には船橋が架けられた。川に船を並べて上に板を敷くなど、架橋は大工事であった様子がわかるが、一般の通行は許されず、将軍が日光から戻ると直ちに撤去された。
松尾芭蕉(まつおばしょう)も通った「幸手を行ば 栗橋の関」
この句は、松尾芭蕉が奥の細道の旅から4年後の句会で詠んだ連句の一部。旅に同行した弟子の河合曾良(かわいそら)が残した「曾良旅日記」の元禄2年(1689)3月28日の記事で、「この日栗橋の関所通る。手形も断りも入らず」と、関所を普通に通行できたことを少し驚きをもって記録している。
栗橋宿周辺 まちめぐり -古きを訪ねて-
炮烙(ほうろく)地蔵
市指定文化財。
関所破りで火あぶりの刑に処された者を供養するため建立されたと伝えられる。「炮烙」は素焼きの土鍋のこと。
会津見送り稲荷
市指定文化財。
江戸へ向かう会津藩士が栗橋付近で出水のため通行できず困っていたが、白髪の老人の道案内で無事江戸へ辿り着いた。老人は後に狐の化身だとわかり、この地に祀ったという。
吉田家水塚(みつか)
市指定文化財。
水塚とは、洪水に備えて盛土の上に建てた避難施設のこと。この水塚は栗橋宿で商家を営んだ吉田家の敷地にあったもので、利根川堤防強化事業により現在の場所へ移築・復元された。(公開日:毎週日曜日(年末年始を除く))
顕正寺(けんしょうじ)
栗橋宿を開いた池田鴨之介の墓(市指定文化財)がある。池田家は、代々栗橋宿の本陣(大名や幕府役人が宿泊する宿舎)の役を務めた。
神廣寺(じんこうじ)
栗橋宿を開いた並木五郎平の墓(市指定文化財)や人々の供養のために建てられた「六角名号塔(ろっかくみょうごうとう)」(市指定文化財)がある。
「栗橋関所址(あと)」碑
関所廃止後、利根川橋の開通で渡し船が廃止されることに伴い建てられた。利根川堤防強化事業により、この場所に仮移転した。
日光御廻道(おまわりみち)
徳川将軍が日光へ参拝する際に、洪水で本来の街道を通行できない場合の迂回路として設定されていた。
八坂神社
栗橋宿の鎮守。慶長年間(1596~1615)の利根川大洪水の際、元栗橋(茨城県五霞町)から神輿が転覆せずに鯉と亀に囲まれて流れ着いたことに人々が神威を感じ、創建されたという伝承をもつ。
静御前(しずかごぜん)の墓
市指定文化財。
源義経の内縁の妻であった静御前は、奥州に逃れた義経の跡を追う途中、伊坂で亡くなったとされる。静御前を偲ぶ祭りが毎年開催されるなど、今もなお地元の人々によって語り継がれている。
出典
出典:広報くき 令和5年4月号
リンク:https://www.city.kuki.lg.jp/shisei/koho/kuki/kohokuki_r05/koho202304.files/01-32.pdf
久喜市観光ボランティアガイド
久喜市では「久喜市観光ボランティアガイド」という取組みが行われています。栗橋宿の史跡巡りをはじめ、市内の自然、歴史、史跡、文化等を、地元ガイドが無料で紹介するイベントです。
久喜の住民からの生の声が聞ける、貴重な体験ですね。久喜市在住の方にも新しい発見がありそう!
▽久喜市観光ボランティアガイド 紹介HP
https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/kanko_tokusan/guide/boranteia.html